2009年12月17日

足尾鉱毒事件による被害が大きくなり

足尾鉱毒事件による被害が大きくなり、農民の鉱毒反対運動が盛り上がると、1905年、政府は栃木県下都賀郡谷中村全域を買収してこの地に鉱毒を沈殿する遊水池を作る計画を立てた。ただし、これは、鉱毒反対運動の中心地だった谷中村を廃村にすることにより、運動の弱体化を狙ったものであるという指摘が当時谷中村に住んでいた田中正造によって既になされている。

谷中村は全域が強制買収され、1906年、強制廃村となった。1907年までに立ち退かなかった村民宅は強制破壊された。ただし、一部の村民はその後も遊水池内に住み続けた。最後の村民は1917年2月25日ごろこの地を離れた。

政府は1912年から1918年にかけての工事でこの地を堤防で囲い、遊水池とした。ただし、この場所には通常は水はなく、洪水時に水が貯められる仕組みであった。同時期に川の付け替え工事も行われ、栃木・群馬県境をうねるように流れていた渡良瀬川は、藤岡町東側を流れるように変更された。

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この時代、遊水池の拡張も行われ、旧谷中村以外の下都賀郡部屋村(現藤岡町)、同野木村(現野木町)群馬県邑楽郡海老瀬村(現板倉町)、茨城県猿島郡古河町(現古河市)の一部も遊水池の内部となった。

この後、調整池を作る計画があったが、第二次世界大戦により中断。1963年から1998年にかけて、全域を堤防で囲う工事が行われ、第1、第2、第3調節池の3地域に分けるほぼ現在の形となった。第1調整池は1970年、第2調整池は1972年、第3調整池は1997年完成。第1調整池内に1989年、第1貯水池である渡良瀬貯水池(谷中湖)が造成された。

2009年12月01日

若狭国の状況

『延喜式』によると、若狭国は10日毎に「雑魚」、節日ごとに「雑鮮味物」、さらに年に一度「生鮭、ワカメ、モズク、ワサビ」を御贄として納めることが定められている。

すでに述べたとおり藤原京跡や平城京跡より、多量の木簡が発掘されている。調は絹や麻などの糸や布で納められることが一般的であった。しかし木簡からは若狭国では塩により調が納められたという大きな特徴がある。

若狭には8世紀以降使用されていたと思われる製塩施設が、船岡遺跡・岡津遺跡(旧大飯郡)などで発見されている。これらの製塩施設は大規模で、周辺住民が日々に使用する塩を作るためというより、時の権力による強制力により労働力が集められて、製塩が行われたと考えられている。
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若狭国の地理的特長を見ると、海岸線はリアス式海岸で複雑に入り組んでおり、対馬海流の影響で海産物に恵まれている。一方で平野部は狭く限られており、田畑の面積は少ない。また、若狭国は、8世紀に置かれた郡は遠敷郡、三方郡の2郡であり(9世紀に大飯郡が遠敷郡から分離して3郡に)、近国で一国二郡は志摩国、淡路国とあわせて3国しかなかった。このように田畑の少ない場所が国単位として成立していたことは、皇室・朝廷にとって特殊な場所であったと推定される。
『延喜式』によると、志摩国は10日毎に「鮮鰒(なまのあわび)、さざえ、蒸鰒(むしあわび)」を納めることが定められていた。また節日ごとに「雑鮮の味物」の献上も定められていた。

平城京跡から発見された木簡に「志摩国志摩郡」の表記が見られ、当初は志摩国は一国一郡であったと推定される。

2009年11月27日

赤外線探査装置

赤外線探査装置
潜水艦は熱源を持っており、上空からの熱源探査により、局部的な赤外線異常が見つかればそこに潜水艦が存在する可能性が疑われる。そこで、赤外線探知機によって潜水艦を探知出来る。一般に、大型の潜水艦の方が探知される可能性が高いとされる。ただし、実際には潜水艦を熱源探知する場合、潜水艦本体の熱源ではなく、潜水艦が浅深度航走をする際に海面に生じる航跡を熱源探知している。また、原子力潜水艦は原子炉の二次冷却水を排出するため、通常動力潜水艦と比べて、特に赤外線探査に脆弱であるとされている。
磁気探知装置
潜水艦のように巨大な強磁性体の塊が海中に存在すると、地球の磁力線が潜水艦を中心に集束するため、磁力線の乱れが生じる。そのため、特定海域の通常の地磁気の状態を把握しておき、磁気異常が見られればそこに潜水艦が存在する可能性が疑われる。航空機からの磁気探知はディーゼル潜水艦で水深500mまで、原子力潜水艦で水深800mが限界であるといわれている。
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魚雷、対潜ロケット、対潜爆弾
Mk46短魚雷、97式短魚雷などが多くの水上艦艇に装備され、対潜ヘリなどでも1?2本程度は搭載できる。アスロックなどの対潜ロケット。航空機から落とす150kg対潜爆弾など。

戦時中のドイツや日本では、海軍の他の部隊と比べて潜水艦は上下関係が緩やかであったといわれる。日本の場合は、艦長ですら自分の下着は自分で洗濯せねばならないほどであった。(ただし、通常動力艦では真水自体貴重品であり航海中の洗濯はほぼ不可能であった)。

2009年11月13日

信長の肖像画としては

信長の肖像画としては、愛知県豊田市の長興寺所蔵のもの、および、兵庫県氷上町が所蔵する坐像(「#第一次信長包囲網」参照)が、そのように伝えられている。
このほか、ヨーロッパから来た画家によって写実的な肖像画[20]が描かれていたとも言われるが[誰?]、太平洋戦争時の空襲により焼失している。現存する写真によれば、太く力強い眉毛、大きく鋭い眼、鼻筋の通った高い鼻、引き締まった口、面長で鋭い輪郭、男らしくたくわえられた髭(ひげ)などが特徴である。ただし、この肖像画に関しては史料的裏付けが無く、明治時代に行われた「忠臣」の顕彰事業時に作成されたとも言われている[誰?]。青年の頃は、女子と見まがう美男子であったとする記録もある。身長は約170cm程度で(比較資料:1 E0 m#脚注・出典)、500m向こうから声が聞こえたという逸話があるほど、かなり甲高い声であったという。
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身分に拘らず、庶民とも分け隔てなく付き合い、仲が良かった。実際、庶民と共に踊ってその汗を拭いてやったり、工事の音頭をとる際等にはその姿を庶民の前に晒している。お盆では安土城の至る所に明かりをつけ城下町の住人の目を楽しませるといった行動から祭り好きでもあったようである。
上京以来朝廷等の貴族階級の財政状態を改善したことから公家とも親交が深かった。特に近衛前久とは最初は敵対していたにも拘らず、趣味の一致などと相まって特に仲が良かったようである。
当時の他の戦国武将同様、男色も嗜み、小姓の前田利家、堀秀政、後には森蘭丸の名で知られる森成利(異説あり)ら多くの稚児と関係を持ったと伝わる。また、側室は権力の強大さに比べ少ないが数多くの子をなしている。

2009年11月02日

遠洋漁業

遠洋漁業(えんようぎょぎょう)の現代的な定義は、自国の排他的経済水域(200海里水域 - 370.4km)の内外における大型漁船による漁業のことである。公海や外国の200海里水域内を漁場とすることも多く、世界の海を駆け回る漁業である。単船で行われる場合もあるが、船団を組んで相互に連絡を取り合う場合が多い。

現代の遠洋漁業は、大きな資本と人数をかけており、1ヶ月から1年半にも及ぶ日数や人件費などの採算に合うマグロとカツオを主な対象魚種としているが、イカを対象とする船団もある。近年は、漁場まで船だけ先に行かせ、操業を行う船員は飛行機で向かわせることで拘束時間を減らし、人件費削減をする例も見られる。
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日本で行われる統計調査における定義では、遠洋漁業とは、遠洋底びき網漁業、以西底びき網漁業、遠洋マグロ延縄漁業、遠洋カツオ一本釣漁業、遠洋イカ釣漁業等をいう。

日本は、海に囲まれているため、古来より遠洋での漁業もされてきた(この場合の「遠洋」は、本拠地の港から遠いという意味)。江戸時代になると、鎖国政策によって、遠洋航海が可能な大型船(時化対応)や、長期航海が可能な寝床や調理場が設置されている船の建造が禁止されたため、遠洋漁業が出来るようになったのは開国後である。

2009年10月23日

債務者(相続財産の破産にあっては

債務者(相続財産の破産にあっては、相続人、相続財産の管理人又は遺言執行者を含む。以下この条において同じ。)が、破産手続開始の前後を問わず、特定の債権者に対する債務について、他の債権者を害する目的で、担保の供与又は債務の消滅に関する行為であって債務者の義務に属せず又はその方法若しくは時期が債務者の義務に属しないものをし、破産手続開始の決定が確定したときは、5年以下の懲役若しくは500万円以下の罰金に処し、又はこれを併科する(破産法266条)。

破産管財人、保全管理人、破産管財人代理又は保全管理人代理が、自己若しくは第三者の利益を図り又は債権者に損害を加える目的で、その任務に背く行為をし、債権者に財産上の損害を加えたときは、10年以下の懲役若しくは1千万円以下の罰金に処し、又はこれを併科する(破産法267条第1項)。
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破産管財人又は保全管理人が法人であるときは、前項の規定は、破産管財人又は保全管理人の職務を行う役員又は職員に適用する(破産法267条第2項)。

破産法第40条第1項(同条第2項において準用する場合を含む。)又は第230条第1項(同条第2項において準用する場合を含む。)の規定に違反して、説明を拒み、又は虚偽の説明をした者は、3年以下の懲役若しくは300万円以下の罰金に処し、又はこれを併科する。

2009年06月22日

散布型地雷とスマート地雷

ベトナム戦争ではゲリラ戦が主だったこともあり戦況が流動的で、地雷設置に時間を割くことが難しかった。そのため、航空機などから散布する散布型地雷が開発された。しかし、個々の散布型地雷の設置場所は散布部隊自身にもわからず、またゲリラ戦ゆえ戦場も流動的であるため、友軍が散布した地雷が行軍上の障害になるという事態が発生した。

この問題を解決するために開発されたのが「スマート地雷」である。最初のスマート地雷は、アメリカが1978年に開発したFASCAM(Field Artillery Scatterable Mines、ファスカム)で、散布後一定時間が経過すると自爆する。タイマーによる自爆・無力化以外に、暗号化された無線送信に対して応答して所在を知らせ除去を容易にするものなど、さまざまな技術が開発されている。しかし、たとえば自爆型地雷が自爆失敗する確率が0.1%?5%あるなど、完全ではない。
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スマート地雷はあくまで軍事上の必要性から生まれた兵器であるが、結果として、地雷の非人道性を減ずることとなった。つまり、今叫ばれている地雷の人道的な面での問題のほぼ全ては、(コストは掛かるが)技術で解決が可能なものである。しかし、昨今問題とされているのはこうした機能を持たない旧式の地雷であり、地雷を敷設する際のセオリーを守ることのない非正規交戦組織によるものであり、発展途上国では現在でも依然として安価且つ大量に製造販売が行われている。

戦略上の地雷 [編集]
地雷は原則として(自分から飛んで行ったり)能動的に攻撃を行うものではない。その意味で、日本政府が標榜する「専守防衛」という戦術的観念には適合的である。しかし、陸上自衛隊は対人地雷禁止条約(後述)に従い、2003年2月までに処理訓練用のものを除く対人地雷を廃棄した。もっとも、遠隔操作のみで爆破可能な指向性散弾は条約の禁止する対人地雷に含まれないため、代用武器として使用している。


雷による被害 [編集]
地雷による被害は人間が足を失ったり死亡したりする直接的な人的被害と、地雷が埋まっているかもしれない土地が不動産価値を失ってしまう経済被害に大別できる。 たった一個の地雷が埋まっているかもしれないというだけでその土地を活用することが出来なくなり、その土地を通行することはおろか、農地や宅地として使用することが出来なくなってしまう。 通行できない土地が多くなると流通にも支障をきたし、外国資本だけでなく国内投資もその場所を避けるので多大な経済損害を受ける。

2009年06月05日

武衛家とは斯波氏の嫡流

武衛家とは斯波氏の嫡流、すなわち室町幕府の管領をつとめた家柄をいう。武衛とは兵衛督および兵衛佐の唐名で、当主が代々任ぜられたことに由来する。

斯波氏は室町幕府において執事(後の管領)として任用されるようになる。しかし、幕府は将軍家の家政機関であり、将軍家とほぼ同列の格式を持つ斯波氏が幕府の要職に就くということは、将軍家より格下で臣下だということを認めることであった。事実、それまで足利氏の執事は臣下の高氏が歴代務めていた。そのため当初、斯波高経は臣下がなすべき執事への就任を渋っていた。しかし、結局は高経の子 斯波義将が執事に就任し、高経がこれを後見することとなった。

幕府の執政となった高経・義将親子であったが佐々木道誉の策謀により一時は失脚。高経死後に義将が幕政に復帰すると、管領の細川頼之と対立し、反細川派の勢力を結集し、3代将軍足利義満に頼之の罷免を求める康暦の政変で再び管領となる。

斯波義将は義満の没後も将軍足利義持を補佐し、朝廷から義満に対する太上天皇の尊号を追号する事を拒否したり、勘合貿易の廃止を提言するなど影響力を持った。

幕府において三管領四職七頭の制ができると、斯波氏は畠山氏、細川氏と管領を出す家柄として重んじられ、他の二家を抑えて三管領筆頭の家柄を有するに至った。斯波義重は1399年の応永の乱における大内氏討伐の功により越前国・尾張国の守護職を与えられ、以降世襲する。しかし、義将死後は衰退への道をたどり、義将の甥である満種は1414年に将軍足利義持の不興を買い、加賀守護職を失って高野山に隠退。1409年に管領職を譲られた孫の斯波義淳もまもなく解任され、足利義教が6代将軍に就任するまで長い間、幕府から冷遇される事となった。

斯波氏は家柄としては三管領の筆頭を誇り勢力も大きいことから嫡流も奥州に拠点を持った斯波氏の一門(高水寺斯波氏、大崎氏、最上氏、天童氏など)らも当初は大いに栄えた。しかし、中央においては細川氏が政治の拠点 畿内を抑え、畠山氏も畿内近辺に所領を有すのに対して、斯波氏の所領は尾張国と越前国という京都から遠い場所であり、また領地同士が分断されていた。当主は京に滞在していることが多いため、支配は守護代に委任せざるをえなかった。このため次第に領国の実権は朝倉氏や織田氏などの守護代、重臣らに牛耳られるようになっていった。応仁の乱の際にいち早く斯波氏が守護職をつとめる越前で下克上が発生するのはそのためである。
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応仁の乱前夜、斯波家嫡流の武衛家では斯波義健没後、家督相続をめぐる争いが起こった。斯波氏庶流にあたる斯波大野氏からの養子であった斯波義敏と、渋川氏出身の斯波義廉とが家督を巡って争ったのである。この家督争いが足利将軍家や畠山氏の家督相続と関係して1467年の応仁の乱を引き起こす原因の1つになる。応仁の乱に際しては義敏も義廉も領国に下ってその一円支配を目指すものの、遠江国を今川氏に、越前国を朝倉氏に奪われて領国の大半を失い、尾張国で義敏の子孫が守護代の織田氏に推戴されて存続するのみとなった。

なお、斯波義廉の子義俊は、室町将軍家の分家である越前の鞍谷公方を継ぎ、形式的な越前国主として朝倉氏に推戴された。

尾張国のみを残すところとなった斯波氏であるが、応仁の乱後にすぐさま織田氏の傀儡となったわけではなく、斯波義寛が室町将軍による六角征伐へ織田氏を従えて参陣していることや、斯波義達が遠江国奪還のための出陣を繰り返すなど、依然、守護としての威令は保っていたようである。しかし義達が今川氏親に敗れ遠江国奪還に失敗し、斯波義統が年少で当主となると、以後は織田氏の力が更に強まり、守護である斯波氏を完全に凌駕するようになる。

2009年05月02日

生態系

生態学における生態系(せいたいけい, Ecosystem)は生物群集やそれらをとりまく環境を、ある程度閉じた系であると見なしたとき、それをさしてこう呼ぶ。

ある一定の区域に存在する生物と、それを取り巻く非生物的環境をまとめ、ある程度閉じた一つの系と見なすとき、これを生態系と呼ぶ。

生態系は生態学的な単位として相互作用する動的で複雑な総体である。

生態系という語は1935年にイギリスの生態学者アーサー・タンズリーの論文に初めて現れる。しかし、実際にこの語を作り出したのはタンズリーの同僚のロイ・クラファンだった (1930年)。

生態系の生物部分は大きく、生産者、消費者、分解者に区分される。植物(生産者)が太陽光から系にエネルギーを取り込み、これを動物などが利用していく(消費者)。遺体や排泄物などは主に微生物によって利用され、さらにこれを食べる生物が存在する(分解者)。 これらの過程を通じて生産者が取り込んだエネルギーは消費されていき、生物体を構成していた物質は無機化されていく。それらは再び植物や微生物を起点に食物連鎖に取り込まれる。これを物質循環という。

ある地域の生物を見たとき、そこには動物、植物、菌類その他、様々な生物が生息している。これを生物群集というが、その種の組み合わせは、でたらめなものではなく、同じような環境ならば、ある程度共通な組み合わせが存在する。 それらの間には捕食被食、競争、共生、寄生、その他様々な関係がある。捕食-被食関係のような生物間のエネルギーの流れを食物連鎖と呼ぶが、近年ではその複雑さを強調して食物網(food web)が用いられることが多い。
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食物網を見渡すとき、植物、それを食べる植食者、さらにそれを食べる肉食者というように生きたものを起点とする食物網がある。これに対して、生物の遺体や排出物を起点として微生物がこれを利用し、さらにそれを他の生き物が利用する食物網がある。前者を生食食物網(grazing food web)、後者を腐食食物網(detrital food web)と呼ぶ。実際には両者は所々でつながっており完全に独立したものではない。

どちらの食物網においても植物による光合成を起点として、エネルギーが何段階もの生物を経由していくことがわかる。これらを生産者、一次消費者、二次消費者あるいは一次分解者、二次分解者というように呼び、このような段階を栄養段階(trophic level)と呼ぶ。

通常ある生態系における生物群は他の生物間や環境とバランスのとれた関係になっている。新たな環境因子や生物種などの導入は著しい変化を及ぼし、生態系の崩壊や在来種の絶滅などを引き起こす事も考えられる。

2009年04月18日

ヒツの戦い

邲の戦い(ひつのたたかい、中国語 邲之戰 Bì zhī zhàn)は、紀元前597年(周の定王10年、魯の宣公12年)、中国、河南省鄭県の邲において晋と楚が激突した戦い。楚軍の大勝利に終わった。これ以降、天下の覇権は晋から楚へと移り、楚の荘王の威光が大陸を覆うことになる。

楚荘王は天下平定を目指していたが、北上するたびに晋に阻まれていた。そこで荘王は一大決心でもって自ら兵を率いて鄭を攻めた。鄭は晋に援軍を求めたが、晋の正卿の荀林父は度重なる鄭の面従背反を知り抜いていたので、援軍を送らずに放っておけばすぐに鄭は楚に降伏するだろうとみて、これを退けた。鄭は負ければ今度こそ荘王に国を滅ぼされるという危機感を抱き、必死に抵抗したので、晋の想像よりも長い間陥落しなかった。そこで晋は援軍を発したが、晋軍が鄭に到着する頃に、鄭は陥落した。

鄭の襄公は微子啓が周に降ったときの礼でもって荘王を迎えた。楚の群臣は鄭を滅ぼすことを勧めたが、荘王は「鄭君は人に遜ることが出来た。必ずやよく国を治めるだろう」と言って、鄭君に恥辱を与えないために兵を退き、あらためて鄭と同盟を結んだ。

鄭の陥落を知った晋軍の師将の荀林父は撤退しようとし、上軍の将士会も「よろしい。戦いは敵の隙を突いて動くもの。徳・刑・政・事・典・礼の6つが正しく行われている楚に敵対してはなりません」と言ってこれに賛同したが、中軍の佐先穀は戦うことを望み、独断で兵を動かしたので、仕方なく戦うことになった。
セタノール スタッフ 青空の破片 シロキ システム シャリ フレッシュ 星空 レビュー スケープ レター セラピスト ウォータ 雪化粧南瓜 ヤンゴン マリン フリマ ジンゲス ひえい リヤド 大冒険ニュ ポポポ ハート なご セレシン ジンク ネーチャー ブル スティック スポーツ リトル ショート システ フリー 砂漠のバラ ブジー コスメ クリーム トロメア うぇあ あしげ プロペラ ナイフ ショッキ キュート イング スタメン チャ・チャ バラクーダ ローブチ

晋軍の編成
中軍 - 将:荀林父 佐:先穀 中軍大夫:趙括、趙嬰斉
上軍 - 将:士会  佐:郤克 上軍大夫:鞏朔、韓穿
下軍 - 将:趙朔  佐:欒書 下軍大夫:荀首、趙同
司馬:韓厥

楚軍の編成
荘王(楚王) 孫叔敖(令尹)
中軍 - 将:沈尹
左軍 - 将:子重
右軍 - 将:子反

決戦
楚の荘王と令尹(宰相)の孫叔敖は鄭を降したのちに晋軍と戦うことに意義はないとし、後詰の軍勢を残して郢に撤退しようとしたが、伍参が荘王の前に進み出て「晋の政治を執っている者は就任して日が浅く、群臣はまとまっていません。戦えば必ず勝てます。ましてや敵の師将は一国の宰相であり、我が軍の師将は一国の君主であるのに、ここで退いてどうして天下に示しがつきましょうか」と言って叩頭し、額を割らんばかりであった。

荘王は悩んだ末に馬車を北に向けさせ、鄭国内の管に陣を構えてから晋に和睦のための使者を送った。晋の荀林父と士会はこれを受け入れると使者を送ったが、先穀も密かに使者を送り、和睦を拒絶し戦をすると伝えさせた。しかし、不審に思った荘王はまた和睦の使者を送ったので、結局晋と和睦することになった。

荀林父は和睦の使者として魏錡と趙旃を送ったが、この二人は元より和睦するつもりはなく、荘王を討ち取るつもりであった。楚王の陣に近付いた二人は攻撃を仕掛けたが、守りが堅く果たせなかった。退却する二人を追って荘王の本陣の兵が晋軍の中に突出しそうになったので、荘王の陣が孤立することを恐れた孫叔敖は慌てて全軍に突撃を命じた。

荀林父は突然の楚軍の突撃に為す術を知らず、「一番早く河を渡って退却したものに褒美を出す」と全軍に布告したので、晋の中軍と下軍は瞬く間に壊滅し、退却のときに黄河を渡るも船の数が足りず、1つの船に多くの兵が群がったので先に船に乗れた兵は転覆を避けるために船縁をつかんだ兵の指を切り捨てた。このため春秋左氏伝においてこの状況を「舟中の指掬す可し。」と描写された。晋の三軍の中では士会の率いる上軍だけがこの混乱の中で動じず、一兵も損ぜずに退却することに成功した。

事後
この戦い以降、晋は暫くの間低迷期に入り、楚の荘王の威光が天下を覆うことになる。これにより荘王は春秋五覇に数えられることもある。