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東西合併から春秋園事件が起こった

昭和時代 [編集]
1927年(昭和2年)の東西合併から春秋園事件が起こった1932年までの間、番付編成の基準はめまぐるしく変化し(東京開催と関西開催を交互に行う年4場所制だったが、東京場所の番付は東京場所の成績を基準に作成され、関西場所も同様に作成された、など。)、力士の地位・出世にも影響を及ぼした。能代潟の項を参照。
東西相撲合併後の1927年1月場所、年寄定員88名に大阪方17名を加え105名に増員(うち2名は一代年寄)。この場所の番付の「年寄」の欄には現在の番付と違い、「年寄」と書かれた下部に小さく「イロハ順」と書かれており、いろはの順番に年寄名が記載されていた。この番付で大坂相撲の錦城山、荒熊の両大関は平幕に編入された。
1931年(昭和6年)1月場所千秋楽、横綱宮城山が引退を表明したが、翌3月場所には名を残し、5月場所の番付は1890年5月場所以来41年ぶりに横綱不在の番付(翌1932年10月場所まで)となった。
1931年1月場所の番付は、西方幕内に出羽ノ海部屋力士が独占した。大関大ノ里以下20人がすべて出羽ノ海所属である。これは大相撲史上空前絶後の記録で、十両も22人中10人と半数近くを占めた。対する東方幕内は立浪部屋の3人が最多だった。
1932年1月場所の番付編成(春秋園事件による改正前)において、前年5月場所で優勝した小結武藏山は関脇を飛び越し新大関に昇進した。小結から新大関に昇進した例は、1938年(昭和13年)5月場所の前田山がいるが、前田山の場合は前(1月)場所に横綱玉錦を破り11勝2敗の好成績をあげ、この場所大関が鏡岩1人ということも考慮され大関昇進を決定づけた。
1933年(昭和8年)1月場所の番付は前年に起きた春秋園事件で発足した大日本相撲連盟から脱退し、協会へ帰参した幕内格12名、十両格8名は協会脱退当時(1932年1月)の順位で東西を分けず、地位も記さず別席として四股名を連ねた番付を別に添付した。この場所の番付は従来より小型となった。翌5月場所には元の大きさに戻った。
1933年2月、天龍一派の新興力士団が「大日本関西角力協会」を結成。大阪で第一回本場所開催のおり発行された番付(東西制はなく片番付様式)には大関天龍、関脇大ノ里、小結錦洋以下力士41人。行司(番付には行司ではなく「審判員」と書かれている)7人(この中にのちの24代木村庄之助(当時は初代式守伊三郎)がいる)。他に「事務員」「拡声係」「桟敷係」「世話人」が書かれている。
1934年(昭和9年)5月場所の番付より、幕下以下の力士全員の出身地名が記載された。
1936年(昭和11年)5月場所、双葉山は新関脇の場所で11戦全勝で優勝し、新大関昇進を決めた。新関脇の番付を1場所で新大関に昇進した例は、1918年5月場所の九州山(東西制による)、1939年(昭和14年)5月場所の羽黒山(11勝4敗)、1940年(昭和15年)5月場所の五ツ嶌(13勝2敗)がいる。このうち五ツ嶌の13勝は新関脇として最多の勝ち星(15日制以降)で、のち吉葉山(1950年(昭和25年)5月場所)、琴欧州(2005年(平成17年)9月場所)がこの記録に並んでいる。
相撲界を揺るがした「春秋園事件」も1937年(昭和12年)暮れに関西角力協会がついに解散。それに伴い帰参した力士の番付編入は厳しい扱いだった。1938年1月場所の番付では帰参力士は脱退時の番付地位より一段下に編入。関西の入門者で幕内・十両となった者は幕下に、それ以下の者は新弟子扱いとなった。
1939年1月場所、日中戦争(支那事変)の激化で応召・入営力士が増え、番付にはその力士の上に「応召」・「入営」と書き加えた。1940年5月場所には応召・入営力士は番付の欄外に一括された。
1939年5月場所の番付編成において、1月場所4日目の前頭4枚目安藝ノ海戦で、連勝記録が「69」で止まった横綱双葉山は9勝4敗と振るわなかったが、11勝2敗と双葉山より成績の良かった横綱男女ノ川を差し置いて、連勝記録の実績を評価され東正横綱に据えられた。期待に応えた双葉山は、興行日数が15日制となったこの場所、完全復活し見事15戦全勝(15日制で史上初)で6回目の優勝を果たした。
1940年5月場所、東前頭12枚目の青葉山は7勝8敗と負け越しながら翌場所は西前頭4枚目と、落ちるどころか逆に8枚も昇進したという極端なケースがある。こういうのを俗に言う「番付運」で、当時は東西制でそうするより仕方が無かったと思われる。
1941年(昭和16年)1月場所で安藝ノ海、五ツ嶌の同時大関昇進で、前田山を含めて番付の東方に3大関が並んだ(西方は羽黒山1人)。これは1919年(大正8年)1月場所(西方に2代朝潮、千葉ヶ嵜、伊勢ノ濱。東方は九州山1人)以来22年ぶりの変則番付となった。
1942年(昭和17年)1月場所の番付より、機密隠匿のため応召および入営力士の欄外張出はされなくなった。
1944年(昭和19年)11月場所後の番付編成会議は、力士の応召などの関係から次場所(1945年(昭和20年)5月場所)開催の1ヶ月前に行うことになった。その5月場所は空襲の影響により6月に順延となった。
戦後初の1945年11月(秋)場所の番付はザラ紙の小型版で序ノ口力士はなく、記載力士はわずか216人だった。
1946年(昭和21年)11月場所は丸1年ぶりに行われた本場所だったが、横綱双葉山をはじめ、笠置山、玉ノ海、出羽湊などが前年11月場所限りで大量に引退したため、幕内と十両で13名の力士が番付から消えた。
1947年(昭和22年)6月場所の番付で、十両を1場所で新入幕を果たした岩平は本名のまま土俵に上がったが、本名のままの幕内力士第1号だった。翌11月場所「若葉山」と改名した。また、この場所の番付で史上初めて5大関(佐賀ノ花、前田山、名寄岩、東富士、汐ノ海)となった。
1948年5月場所で、横綱・大関・関脇各3人の番付ながら張出を設けず、すべて枠内に四股名が記載された番付となった。翌10月場所も横綱・大関各3人がすべて枠内に書かれた。このときはこの2場所のみだったが、1994年(平成6年)7月場所に張出制度が休止されて以降、張出のない番付は現在に至っている。
1951年(昭和26年)5月場所の番付編成で、三役格行司の8代木村庄三郎(のち19代式守伊之助)を新設された副立行司に昇格させ、立行司の13代木村玉之助が同じ副立行司に格下げとなった。同年9月場所にも三役格行司2代木村正直(のち23代木村庄之助)が副立行司に昇格となった。
1951年5月場所初土俵の愛宕山は、番付に四股名が載ってから五分あるいは負け越しの場所が続き、7場所目に初めて勝ち越したが、翌場所力士数の少ない当時としては異例の三段目に昇進した。その後番付上の幸運は続き、1955年(昭和30年)9月場所、幕下26枚目で8戦(当時)全勝優勝し翌場所十両に昇進している。
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1956年(昭和31年)3月場所の番付は1918年1月場所以来38年ぶりに、横綱・大関・関脇・小結・前頭に張出(横綱?栃錦、千代の山、大関?松登、関脇?羽嶋山、小結?鶴ヶ嶺、前頭?星甲)がある番付となった。翌5月場所も同様(横綱?鏡里、千代の山、大関?松登、関脇?出羽錦、小結?羽嶋山、前頭?二瀬山)に各地位に張出がある番付となった。
1957年9月場所の番付編成において、幕下まで20場所以上要した力士は廃業とする力士整理案が実施された。これにより三段目以下で廃業した力士が多く、前場所より28人減となった。
1960年1月場所、これまでの番付を改め「取締」「理事」を東方の最下段に、「勝負検査役」を中央部の「行司」の欄の下部に配し、「若者頭」「世話人」「呼出」を削除した。
1960年1月場所、羽黒花はこの場所まで3場所連続十両昇進をしてもおかしくない成績を挙げながら幕下西筆頭の地位だった。1959年(昭和34年)7月場所、幕下西14枚目で7勝1敗(当時幕下以下は8番相撲)で幕下優勝。しかし翌9月場所は西7枚目。再び7勝1敗の成績ながら、翌11月場所は西2枚目。ここで十両昇進決定的ともいえる6勝2敗の成績を上げ、いくら何でも今度こそは十両入りと、すべての支度を整えて周囲も本人もその気でいたところが、1月場所の番付発表で西筆頭止まりという番付運の悪さがつきまとった。しかしこの場所8戦全勝で幕下優勝を果たし、翌3月場所には十両に昇進している。
1960年7月場所、十両に陥落した東筆頭の羽子錦は9勝6敗の成績を上げながら再入幕できなかった。東筆頭で9勝を上げながら入幕できなかったのは羽子錦が史上ただ一人。十両西筆頭の地位で9勝を上げながら入幕できなかったのは、1987年(昭和62年)11月場所の大乃花、1990年5月場所の貴闘力(現大嶽)、1991年(平成3年)3月場所の栃司(現入間川)がいる。
1960年7月場所後に興行された、秋田県大館巡業において作られた板番付には、東方張出大関の柏戸は枠外に書かれているのに、同じ東方で枠内に書かれている関脇の若三杉(のち大豪)は、普通なら東の正関脇のはずが何故か「関脇」の文字の上部に、小さく「張出し」と書かれている。
1961年(昭和36年)11月場所、大関・関脇・小結は張出がある番付で、横綱(初代若乃花、大鵬、柏戸、3代朝潮の4人)のみ、張出を設けず4人を正横綱とし枠内に記載された番付となった。途中朝潮の引退もあったが、この様式の番付は翌年3月場所まで続いた。
1962年(昭和37年)5月場所直前に起きた二所ノ関部屋配属力士の片男波部屋移籍問題で紛争が起き、二所ノ関(元大関・佐賀ノ花)が9力士の廃業届を提出したが、5月場所7日目に緊急理事会を開き、二所ノ関部屋の廃業9力士の復帰を現在の番付地位より10枚下げて認め、時津風理事長(元横綱・双葉山)は二所ノ関と片男波(元関脇・玉乃海)の2人に謹慎を命じた。
1964年(昭和39年)11月場所、幕下で7戦全勝優勝した伊藤川(のち若葉山)は東幕下40枚目の地位だったが、翌1965年(昭和40年)1月場所の番付で一気に十両に昇進した。現在では幕下で全勝しても、15枚目より上位でないと十両に上がれないので、当時としては非常に幸運なケースといえる。
1966年(昭和41年)1月場所の番付は74年ぶりに役力士昇進、新入幕力士ともになかった。
1967年(昭和42年)5月場所の番付は枚数削減を実施(幕内34人、十両26人、幕下は120人の定員)したため新入幕力士、新十両力士ともになし。3月場所、十両で勝ち越した安芸の國、前田川、嵐山は幕下へ陥落した。安芸の國は翌7月場所、再十両となり、嵐山も再十両ののち入幕を果たしたが、前田川は5月場所で負け越すとそのまま引退してしまった。
1967年12月23日、協会の機構改革により翌1968年1月場所の番付編成において、理事15人、監事3人のうち理事を10人に減らし、理事の互選による取締制度を廃止。勝負検査役も任命制となり、名称も「審判委員」と改められ新しく設置された。
1970年3月場所、東関脇の栃東(現玉ノ井)は1点の負け越し(7勝8敗)で翌場所東前頭筆頭に番付を下げた。1971年3月場所、同じ東関脇の陸奥嵐は7点の負け越し(4勝11敗)ながら翌場所の番付は西前頭筆頭、同場所東小結の藤ノ川(現伊勢ノ海)も5点の負け越し(5勝10敗)で翌場所は東前頭2枚目だった。
1972年(昭和47年)7月場所で史上初めて5関脇(輪島、貴ノ花、三重ノ海(現武蔵川)、魁傑(現放駒)、長谷川(現秀ノ山))の番付となった。
1972年9月場所、十両で初の公傷制度が適用され、大潮(現式秀)と鷲羽山(現出羽海)が先場所の番付と同地位で張り出された(大潮は東5枚目、鷲羽山は西10枚目)。その後、1976年(昭和51年)5月場所に十両の公傷休場力士の張出扱いを休止した。
1972年11月場所の番付で東前頭14枚目の福の花の四股名が行司の誤記により「福ノ花孝一」と書かれた。
1975年(昭和50年)頃の番付で立行司(木村庄之助、式守伊之助)と同列に三役格行司の名前が書かれたことがあった。
1975年3月場所の番付は、1948年10月場所以来27年ぶりに張出のない番付となった。
1976年9月場所、前頭4枚目の元大関魁傑は14勝1敗で平幕優勝。大関(1975年3月場所?同年11月場所、在位5場所)を陥落して5場所目だが、平幕まで陥落した大関経験者の優勝は史上初。魁傑は翌1977年(昭和52年)3月場所には再び大関に昇進したものの、在位4場所で陥落した。
1977年(昭和52年)5月場所で元大関大受(現朝日山)が十両に陥落したが、元大関の十両陥落は史上初。大受は初日から3連敗の後休場し、8日目に引退を表明した。
1978年11月場所前、この年は全国的に深刻な水不足に見舞われたが、福岡県地方は特にひどく、協会は少しでも負担を軽くとの配慮から、場所前の巡業を打ち上げた後いったん帰京。番付発表を東京で行い、全力士の福岡入りを初日の6日前まで遅らせた。
1980年(昭和55年)7月場所の番付編成で、福薗(のち逆鉾、現井筒、元関脇鶴ヶ嶺の次男)、鶴嶺山(長男)の史上初、兄弟十両同時昇進が決まった。親子3人関取も史上初。
1980年11月場所、右肩の怪我で三段目まで陥落した元小結大豊は見事7戦全勝優勝したが、元三役が三段目の土俵に上がったのは、1938年(昭和13年)5月場所の出羽ヶ嶽以来47年ぶりで、三段目優勝となると史上初。
1981年9月場所の番付は大関不在のため東西の正横綱、北の湖と千代の富士(現九重)が「横綱大関」となる。大関不在の変則番付は1905年(明治38年)1月場所(2代梅ヶ谷、常陸山の東西正横綱が「横綱大関」となる)以来76年ぶり。
1983年(昭和58年)5月場所の番付編成において、大関にも公傷制度を適用することとなった。同年9月場所8日目に朝潮(現高砂)が横綱隆の里(現鳴戸)戦で膝を痛めて休場し、大関公傷適用第1号となった。
1985年(昭和60年)1月場所より新国技館で開催されたが、番付には「両国國技館」ではなく「國技館」と、「両国」の文字は入らなかった(蔵前国技館時代の番付には「藏前國技館」と書かれていた)。
1985年3月場所の番付において、新入幕の前頭14枚目寺尾(現錣山)は兄の同4枚目逆鉾(現井筒)と同時幕内を果たし、1791年(寛政3年)11月場所の横綱谷風、前頭6枚目達ヶ関以来194年ぶり史上2組目の兄弟同時幕内力士となった。
1985年3月場所初土俵の蒼樹山(現枝川)は、番付に「寺木」の名が初めて載った翌5月場所で7戦全敗。その次の7月場所も初日から3連敗のあと初白星をあげたものの、初土俵から10連敗を記録した。それから18年後の2003年(平成15年)11月場所、十両西8枚目を最後に引退したが、この場所初日から9連敗、10日目不戦敗で同じ10連敗で土俵を去った。

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2009年04月03日 09:40に投稿されたエントリーのページです。

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