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武衛家とは斯波氏の嫡流

武衛家とは斯波氏の嫡流、すなわち室町幕府の管領をつとめた家柄をいう。武衛とは兵衛督および兵衛佐の唐名で、当主が代々任ぜられたことに由来する。

斯波氏は室町幕府において執事(後の管領)として任用されるようになる。しかし、幕府は将軍家の家政機関であり、将軍家とほぼ同列の格式を持つ斯波氏が幕府の要職に就くということは、将軍家より格下で臣下だということを認めることであった。事実、それまで足利氏の執事は臣下の高氏が歴代務めていた。そのため当初、斯波高経は臣下がなすべき執事への就任を渋っていた。しかし、結局は高経の子 斯波義将が執事に就任し、高経がこれを後見することとなった。

幕府の執政となった高経・義将親子であったが佐々木道誉の策謀により一時は失脚。高経死後に義将が幕政に復帰すると、管領の細川頼之と対立し、反細川派の勢力を結集し、3代将軍足利義満に頼之の罷免を求める康暦の政変で再び管領となる。

斯波義将は義満の没後も将軍足利義持を補佐し、朝廷から義満に対する太上天皇の尊号を追号する事を拒否したり、勘合貿易の廃止を提言するなど影響力を持った。

幕府において三管領四職七頭の制ができると、斯波氏は畠山氏、細川氏と管領を出す家柄として重んじられ、他の二家を抑えて三管領筆頭の家柄を有するに至った。斯波義重は1399年の応永の乱における大内氏討伐の功により越前国・尾張国の守護職を与えられ、以降世襲する。しかし、義将死後は衰退への道をたどり、義将の甥である満種は1414年に将軍足利義持の不興を買い、加賀守護職を失って高野山に隠退。1409年に管領職を譲られた孫の斯波義淳もまもなく解任され、足利義教が6代将軍に就任するまで長い間、幕府から冷遇される事となった。

斯波氏は家柄としては三管領の筆頭を誇り勢力も大きいことから嫡流も奥州に拠点を持った斯波氏の一門(高水寺斯波氏、大崎氏、最上氏、天童氏など)らも当初は大いに栄えた。しかし、中央においては細川氏が政治の拠点 畿内を抑え、畠山氏も畿内近辺に所領を有すのに対して、斯波氏の所領は尾張国と越前国という京都から遠い場所であり、また領地同士が分断されていた。当主は京に滞在していることが多いため、支配は守護代に委任せざるをえなかった。このため次第に領国の実権は朝倉氏や織田氏などの守護代、重臣らに牛耳られるようになっていった。応仁の乱の際にいち早く斯波氏が守護職をつとめる越前で下克上が発生するのはそのためである。
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応仁の乱前夜、斯波家嫡流の武衛家では斯波義健没後、家督相続をめぐる争いが起こった。斯波氏庶流にあたる斯波大野氏からの養子であった斯波義敏と、渋川氏出身の斯波義廉とが家督を巡って争ったのである。この家督争いが足利将軍家や畠山氏の家督相続と関係して1467年の応仁の乱を引き起こす原因の1つになる。応仁の乱に際しては義敏も義廉も領国に下ってその一円支配を目指すものの、遠江国を今川氏に、越前国を朝倉氏に奪われて領国の大半を失い、尾張国で義敏の子孫が守護代の織田氏に推戴されて存続するのみとなった。

なお、斯波義廉の子義俊は、室町将軍家の分家である越前の鞍谷公方を継ぎ、形式的な越前国主として朝倉氏に推戴された。

尾張国のみを残すところとなった斯波氏であるが、応仁の乱後にすぐさま織田氏の傀儡となったわけではなく、斯波義寛が室町将軍による六角征伐へ織田氏を従えて参陣していることや、斯波義達が遠江国奪還のための出陣を繰り返すなど、依然、守護としての威令は保っていたようである。しかし義達が今川氏親に敗れ遠江国奪還に失敗し、斯波義統が年少で当主となると、以後は織田氏の力が更に強まり、守護である斯波氏を完全に凌駕するようになる。

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2009年06月05日 10:44に投稿されたエントリーのページです。

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