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足尾鉱毒事件による被害が大きくなり

足尾鉱毒事件による被害が大きくなり、農民の鉱毒反対運動が盛り上がると、1905年、政府は栃木県下都賀郡谷中村全域を買収してこの地に鉱毒を沈殿する遊水池を作る計画を立てた。ただし、これは、鉱毒反対運動の中心地だった谷中村を廃村にすることにより、運動の弱体化を狙ったものであるという指摘が当時谷中村に住んでいた田中正造によって既になされている。

谷中村は全域が強制買収され、1906年、強制廃村となった。1907年までに立ち退かなかった村民宅は強制破壊された。ただし、一部の村民はその後も遊水池内に住み続けた。最後の村民は1917年2月25日ごろこの地を離れた。

政府は1912年から1918年にかけての工事でこの地を堤防で囲い、遊水池とした。ただし、この場所には通常は水はなく、洪水時に水が貯められる仕組みであった。同時期に川の付け替え工事も行われ、栃木・群馬県境をうねるように流れていた渡良瀬川は、藤岡町東側を流れるように変更された。

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この時代、遊水池の拡張も行われ、旧谷中村以外の下都賀郡部屋村(現藤岡町)、同野木村(現野木町)群馬県邑楽郡海老瀬村(現板倉町)、茨城県猿島郡古河町(現古河市)の一部も遊水池の内部となった。

この後、調整池を作る計画があったが、第二次世界大戦により中断。1963年から1998年にかけて、全域を堤防で囲う工事が行われ、第1、第2、第3調節池の3地域に分けるほぼ現在の形となった。第1調整池は1970年、第2調整池は1972年、第3調整池は1997年完成。第1調整池内に1989年、第1貯水池である渡良瀬貯水池(谷中湖)が造成された。

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2009年12月17日 10:34に投稿されたエントリーのページです。

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